概要

概要

AJU自立の家とは

AJU自立の家とは、障害当事者運動の中から生まれた、障害者の自立をめざす団体です。1973(昭和48)年、車いすを利用する重度障害者の呼びかけをきっかけに、「福祉の街づくり運動」が始まりました。障害者差別あるいは排除の顕著な時代で、当時200万都市の名古屋において、車いすで利用できるトイレがどこにもない時代でした。車いすを利用する仲間たちが行政や百貨店などに、要望書を書いたり、仲間たちと出かけて行き、私たちも社会の一員であることをアピールしました。一方で障害者自身の意識改革をめざし、勉強会も開催しました。仲間たちは社会のせいにしてあきらめるのではなく、自分たちも変わっていこう、自分たちが利用することでバリアをなくしていこうとしてきました。

AJUは、仲間たちの思いに応えて、施設や親元を離れて自立生活を営む方法を学ぶ場を作ったり、重度の身体障害者の働く場を作ったり、自立生活に必要なヘルパーの養成講座を開いたり、在宅介護事業を立ち上げたり、また、知的障害の仲間の働く場や精神障害者の社会復帰の事業も展開しております。AJUは自立生活の拠点であると同時に、当事者運動の拠点でもあります。

社会の片隅に取り残された、より弱い立場の声(困りごと)に耳を傾け、制度がないところは最初はボランティアで活動を組み立て支援しながら、後に事業として認めてもらってきました。災害時要援護者プロジェクトもそうした活動の一環として、災害支援のユニバーサル化をテーマに、一貫して被災現場と当事者から学び、地域での具体的展開を提案しております。

大規模災害における災害支援の取り組み

1995年の阪神大震災の際には、AJUでは、被災地支援と同時に被災した仲間たちを名古屋に受け入れて支援し、また2000年の東海豪雨災害ではAJUの仲間も多く被災するなかで被災地に入り、障害者・高齢者を中心に支援してきました。

東海豪雨災害では、被災した障害当事者100名に対してヒアリング調査を行い、災害時に避難所に行きたくても行くことができない(自宅にとどまらざるを得ず死をも覚悟した)実態、あるいは指定避難所へ逃げた人たちも、二次避難、三次避難を余儀なくされた実態等が浮き彫りになりました。阪神大震災以降も特に、手つかずといってよいほど取り残されたのが避難所の問題で、トイレ、おむつ替え、授乳など、障害者に限らず必要なプライバシー空間の確保など、緊急の災害弱者対策を提言してきました。*1*4

また能登半島地震や中越沖地震の際には、いち早く現地入りし、災害の現場で必要とされた物資について、全国からスポンサーを募って届けるなど、要援護者を中心に被災者への緊急支援を実施しました。

能登半島地震の時は2度現地入りし、一度目は避難所間仕切りセットを届けつつ、そこで目の当たりにしたノロウィルス対策のため、二度目の現地入りで嘔吐物緊急凝固剤「ゲロポン」を急きょ届けました。いずれも、ふだんは障害者就労支援事業所わだちコンピュータハウスの授産製品で、東海地方の自治体を中心に防災備蓄品として納入しているものです。

さらに中越沖地震でも、間仕切りセットの提供を兼ねて現地入りし、災害時要援護者支援のあり方についての検証を行ってきました。

こうした緊急支援のほか、能登半島地震や中越沖地震、岩手・宮城内陸地震などにおいては、被災者した要援護者と支援者へのヒアリング調査を行い、そこで得られた新たな知見(取り組みの方向)をまとめてきました。*2*3*5

東日本大震災における支援活動

AJU自立の家は発災翌日から宮城県名取市と仙台市に支援に入りました。きっかけは、AJUと関わりがあった名取市の仲間から、介護にあたっていた女性スタッフ被災して動けないので、とにかく女性スタッフを送ってほしいという要請からでした。

現地に入った職員からの第一報は、「避難所を周っても障害者の姿が見えない」でした。障害者がいないわけではないから避難所のリーダーに聞いてみてはと、何度もやり取りをしても、「やはり障害者らしき人がいない」。

マスコミからは、津波等の被害状況が刻々と伝えられ、被災地の大変さは遠く離れている私たちに伝わりました。けれど現地のスタッフには、ライフラインが完全に遮断された中で、自分の回りの断片的な情報しか入りません。先の見えない混沌とした状況の中、次々突き付けられる被災者のニーズは流動的でした。目の前にいる「この人」のために何ができるのか即座の判断が求められました。更に、朝暗いうちから夜遅くまで働きづめで、厳しい寒さの中、車での仮眠では、体力の消耗も激しく、第1陣は1週間が活動の限界でした。

そうした中、病院から退院を迫られ行き場のない重度障害者を避難させてほしいという要請があり、震災発災6日目に1人の重度障害者をAJUに受け入ました。

10日目には、10tトラックと4tトラック、2台のワゴン車と乗用車が、救援物資とガソリン550リットルを乗せて、第2陣として現地に入りました。最初の3ヶ月で38名、延べ350人が活動しました。

誰が最も困っているか」への発想の転換を

これまでの大規模災害に共通しますが、避難所に真っ先に逃げられるのは、家族が無事で移動の足が確保できる比較的元気な人たちです。移動手段のない要援護者や、命からがら逃げてきた人たちが避難所にたどり着いた時には居場所がありません。避難所の廊下で過ごすか、倒壊寸前の自宅に戻り余震に震えているしかないのです。皮肉なことに、最も支援が必要な人たちほど、避難所に逃げられないという現実があります。

「大量・一斉・公平・画一」を原則とした従来の災害支援の考え方ではこぼれ落ちてしまう人たちがいます。おにぎりを配られても食べられない、硬い床の上ではねられない、体温調節ができない、一般のトイレでは用が立たせない、医療的ケアが必要…。

一方で、「うるさい」「奇声あげるな」「あんたたちだけが大変なんじゃないんだよ」という声を浴びせられて、「二度と避難所には行くものか」と避難所を後にした障害者も少なくありません。

「何が正しいか」ではなく、「誰が最も困っているか」への発想の転換と、「個別・適時・優先的・多様」を基本とする支援原則への転換が必要です。

障害者や高齢者に限りません。女性が着替えスペースを求めることすら「わがまま」と片付けられ、小さくさせられました。避難所のリーダーが「間仕切りで仕切らない」と決めた避難所では、寝たきりの人が公衆の面前でおむつを交換せざるを得ませんでした。「非常事態」を免罪符にした人権侵害が平気で起こります。

障害のある人や介護の必要な人たちで、自宅を失い、避難所にとどまらざるを得なかった人は、周囲に迷惑をかけないように小さくなるしかありません。南相馬市では、車いすの女性が、迷惑をかけまいと16日間も車いすの上で過ごしました。床に降りて横になることすら許さされない状況を、周りはおかしいと気づくことができませんでした。

平常時の差別・偏見をなくすこと

災害時、障害のある人たちの生きづらさは何倍にも増幅されます。非常事態だから「仕方がない」「我慢しろ」では済まされません。東日本大震災でも、日常の見守りや支え合いが活かされた地域や避難所はありました。日頃の人権感覚が如実に表れました。

障害のある人は災害時における特別の配慮を求めているのではありません。一般の被災者、避難住民と同じように過ごせることを願うだけです。「特別」ではなく、「あたりまえ」ととらえられることが必要です。

発想の転換や支援原則の転換の基礎として求められるのは人権感覚です。

災害リスクの削減の目標は、平常時の差別、格差、排除をなくすことです。

地域で取り組まれる避難訓練に要援護者と呼ばれる人は参加しているでしょうか。「要援護者」役の健常者が車いすに乗って参加する姿は見られるようになりましたが、小学校に着くと車いすを畳んで2階にある体育館にすたすた上っていく現状があります。

地域づくりの課題

一方で、2013年に改正された災害対策基本法で、国は自治体に要援護者名簿の作成を義務づけ、支援者への個人情報の開示に法的根拠を与えました。画期的なことではありますが、名簿を作っただけでは何も役に立ちません。「誰が」「どこに」いるかだけでは不十分で、「誰と」「どこへ」逃げたらよいか個別避難計画が必要です。

困難を抱えた「この人」のためにどんな支援が必要になるのか、個別具体的に考える仕組みが求められます。国も避難所における支援に優先順位をつける「避難所トリアージ」という考え方を示しましたが、取り組みとしてはこれからです。地域住民の中には、医師、看護師、保健師、介護職といった専門職もいるはず。人的資源の把握と地域協働も課題です。

災害が起きた時、「きっとあの人困っているわ」と気にかける人がいること。当事者の側からすると、ふだんお世話をしている家族や福祉サービスの事業所が駆けつけられないとき、「いざという時は助けてね」とお願いできる人がいることが必要です。

災害の時にだけ機能する仕組みはありません。地域の中にはさまざまな困難を抱えた人がいることを認め合い、無視したり、排除するのではなく、包摂するインクルーシブな社会づくりが究極の目標です。

被災地の声と当事者の視点を活かした活動

AJUでは、災害支援で得られた知見を生かして、以下のような取り組みを行っています。

  1. 災害時要援護者避難支援セミナーの開催

    被災地の声と障害当事者の視点を生かして、災害時要援護者避難支援セミナーを年に数回開催してまいりました。東日本大震災をはじめとする被災地から、被災した障害者と要援護者支援を担った方たちを講師として招き、実際の被災現場で問題になった避難支援・避難生活支援の課題を検証してきました。

    災害時要援護者避難支援セミナーの報告

  2. 地域防災プログラム

    地域の防災プログラムに当事者自身が参加していくことにより、当事者自身がまちを点検したり支援の仕組みを作っていく取り組みが重要です。地域住民協働の取り組みがいざというときの底力につながると考えます。AJUでは地元名古屋市昭和区において身障福祉会や精神障害者家族会、防災ボランティアグループ、区社協、消防署の職員等等との協働で災害図上訓練(DIG、2008年2月)や、防災タウンウォッチング(2009年3月)を開催しました。

    防災タウンウォッチングでは、地域の皆さんと障害当事者が一緒になって防災の視点から街を点検し、避難経路を確認しつつ、障害当事者の意見を反映した防災マップ作りを行うことなどをめざしました。普段通り慣れた道も意外と危険な箇所が多いこと、発災時に自力での避難がいかに困難であるかに気づかされるものです。自治会や民生委員協議会にも参加の呼びかけを行っていますが、未だ実現しておらず、当事者の側からアプローチを続けていく予定です。

    また、AJU主催の取り組み以外に、市町村の防災部局や市町村社協が主催する防災プログラムに協力し、ワークショップの一つとして体育館での間仕切りセット組み立て訓練を行ったり、障害当事者の被災体験の小講義を行ったり、防災備蓄品の紹介、避難訓練で体育館にたどり着いた際に要援護者台帳を更新するなどのメニューを企画し、実施しています。

    災害図上訓練(DIG)
    災害図上訓練(DIG)

    タウンウォッチング
    タウンウォッチング

    タウンウォッチングの結果を地図上に落とし込む
    タウンウォッチングの結果を地図上に落とし込む

    地域防災プログラムにおける避難所間仕切り組み立てワークショップ
    地域防災プログラムにおける避難所間仕切り組み立てワークショップ

  3. GIS避難支援システムの開発と導入

    要援護者対策の重要性については浸透しつつありますが、要援護者台帳の整備が進まなかったり、台帳はあっても具体的な支援につなげるツールがないなどの課題があります。

    「対象者を台帳化するだけでは災害時の対応は難しい」「マップがないと家の配置や道順が分かりにくい」という実情に加え、震災を体験した輪島市(石川県)などでは「台帳よりは、ふだんから民生委員や福祉推進員が要援護者宅を訪問していたことで土地勘があり、顔見知りになっていたことが役に立った」と言われます。

    地域の危険箇所や災害時の資源を確認して、地域ならではの知恵を蓄積し、共有し、活用するためのツールとして、GIS(地理情報システム)を使った避難支援システムの活用が重要と考えられます。

    AJUでは、厚労省の2008年度社会福祉推進事業の補助金を得て、「簡単操作」「拡張性」「災害現場に強い」「平常時にも活躍」「セキュリティ」等の要件を満たす災害時要援護者避難支援システムの開発を行いました。その成果を東海4県(愛知・岐阜・三重・静岡)における、災害時要援護者台帳を整備済み、または計画中の自治体で、今後GISを使った避難支援システムの導入を検討している市町村のうち、18市町村にモデル的に導入しました。地域防災プログラムと組み合わせた普段からの活用をめざし、導入した自治体に協力していきます。

    災害時要援護者避難支援システム Town Watcher Ver1.0

    要援護者と地域支援者が合流して避難所へ逃げる経路を書き込んだもの
    要援護者と地域支援者が合流して避難所へ逃げる経路を書き込んだもの

防災・福祉政策担当者への提言

近年の大規模災害を振り返ると、阪神大震災以降、災害支援のあり方は確実に進化を遂げてきていると思います。

  1. ボランティアによる支援…片付け等の労力奉仕
  2. 自衛隊投入…給水、炊き出し、お風呂
  3. 自治体間の連携…電気・ガス・水道のライフライン復旧
  4. 専門職、業界の連携…流通(コンビニ)、建設業、ガソリンスタンド、医療、保健、福祉、心理などの各分野
  5. 防災から減災へ…災害リスク情報活用に関する研究など

災害時要援護者対策については、内閣府より「災害時要援護者の避難支援ガイドライン」(2006年3月)及びその手引きとなる「災害時要援護者対策の進め方」(2007年3月)等が示されました。市町村における福祉と防災の連携が課題であり、要援護者情報の収集・共有や、避難支援プランの作成等に取り組むこととなっております。

一方、2008年度にAJUが実施した要援護者対策に関する調査では、国の描くとおりに進んでいない実態が多く見られました。要援護者台帳の整備が完了または整備中、整備の予定がある自治体は9割強を数えたものの、個別支援計画が整備されていない自治体は8割、福祉避難所を指定しているもの、並びに、福祉施設等との協定がある割合は4割弱でした。要援護者や地域支援者の参加する避難訓練等を実施しているのは4分の1にとどまりました。

これまでの行政主導の支援の原則ないし限界として、「公平、中立、一斉、画一」ということがあります。2000年の東海豪雨災害の際、100名の避難者に対して50個しかおにぎりが届かず、結局1つも配れなかったと見聞きしたことがありますが、公平で一律でないと何もしないという頑なさを物語るエピソードです。個人情報保護への過剰反応や、住基との連動がとれないから要援護者台帳のシステム化に踏み切れないなど、今もなお頑なさは形を変えて継続していると思います。

災害時要援護者の問題を考えるとき、障害特性や支援の個別性は避けて通れません。今後の支援の方向性ないしキーワードとしては、「公平、中立、一斉、画一」から「個別、適時、少量、多品種」へではないかと思われます。支援の必要度に応じて、柔軟に支援できる体制が求められます。

一方、障害者の困りごとへの対応は、実は、住民の支援の方向と内容に貴重な示唆を与える場合も多いものです。要援護者も参加する地域防災プログラム等を通して、当事者側からの情報発信と、支援のノウハウやマンパワーの集積する福祉事業所との連携の仕組みが求められます。

今後の課題と展望

先の厚労省補助事業による調査やこれまでの取り組みを通して見えてきた、要援護者台帳をめぐる課題としては・・・

  1. 個人情報保護の過剰反応があり、役所内の部局間での共有が難しい。民生委員に対してですら、要援護者の情報開示が難しい。
  2. 仮に台帳の共有・開示を受けても、どのように支援を組み立ててよいか分からない。
  3. 地域支援者がいない。地域との関係が希薄で個別支援プランの中で地域支援者に指名できる人がおらず、民生委員、町内会長等に集中するなど、一部の人への負担が大きい。
  4. 取り組みが自然発生的で熱心な人のいる地域とそうでない地域とで温度差が激しい。計画的系統的に地域防災力を引き上げていくノウハウが乏しい。

などがあります。

再び、GIS災害時要援護者避難支援システムに戻って、そのあり方をめぐって描いたのが、以下のモデル図です。

モデル図
モデル図

  1. 多様な主体の存在
    要援護者をとり囲んでさまざまな主体が存在し、それぞれの立場で情報を保有(管理)しています。名簿情報の共有が困難な状況ですが、それぞれの立場で地域防災に役立つ情報や意見の集約、発見、議論の場づくり、顔の見える関係づくりをめざすことが重要と思われます。
  2. 公民協働型防災DB
    これまで要援護者台帳の整備は行政の課題と考えられてきました。要援護者に関わる多様な主体が存在する中、平常時はそれぞれで分散して管理し、規格は統一せず、いざというときに相互運用できる仕組みをめざすべきです。
  3. きめ細かな地域防災マップ作成
    GISシステムの役割は要援護者管理だけではありません。避難訓練やタウンウォッチングの成果を蓄積するなど、個人単位、コミュニティ単位でのマップ作成支援も課題です。地域住民の協働を通して、知り合った要援護者と支援者の情報を住民どうしで管理していく、ボトムアップ型の運用を行政としては支援していくべきではないでしょうか。
  4. 災害リスク情報の収集・発信・共有
    防災部局が提供するハザードマップをより精度の高い住宅地図レベルで確認できるようにし、住民のリスク認知につなげること。頻発するゲリラ豪雨等に対し、名簿はなくもピンポイントで被害予測し、支援体制を組み立てられるようにすること。

このため、個人単位、コミュニティ単位で使える無料のシステムを提供し、活用することが課題です。AJUとしては今後、その仕組みを提案しつつ、自治体と協議していく予定です。

自助、共助の重要性が言われても、いざというときは行政が助けてくれるという幻想が、住民側(要援護者を含む)には根強くあります。発災時、行政は動けないことを前提に、民間の力が最大限発揮されるよう、近隣住民による共助とともに、障害当事者団体や福祉事務所などにおける災害時の支援の仕組みづくりを、行政として進めるべきだと考えます。